生き物は何を考えているのか

生き物は何を考えているのか

目次

序章

先人たちの考察

環世界

心理学と環世界

生き物の認知

心は誰が作ったか

生き物は何を考えているのか

謝辞

参考・用語解説

 

            序章

  東京工業大学大岡山キャンパスに入り、図書館脇の坂を下ったところに私の好きな植え込みがある。サークル棟に近いその植え込みには、春から夏にかけてオオスカシバ、ホシホウジャク、クマバチと言った様々な昆虫が訪れ、そこに咲く白い花の蜜を吸う。

 

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図1:オオスカシバが蜜を吸う写真*1

 

 彼・彼女らは花に止まると羽をばたつかせながらバランスを保ち、花の中に口吻を差し込む事で次々とその蜜を吸っていく。その様を見た私は、さぞかし蜜が「美味しい」のだろうと微笑んだ。では逆に花の立場としてみたらどうなのだろう。そのように蜜を吸われることは受粉において非常に重要な過程であるから、やはり「気持ちがよく」感じるのであろうか。それとも花弁の先に虫という重しがつけられることにより「重い」とか、茎が軋んで「痛い」と感じているだろうか。

  このように私の幼い頃からの疑問は「生き物は何を考えているのか」と言うものである。この疑問はきっと誰もが一度は思うことであろう。犬を飼っている人が自分の犬は他の誰よりも自分のことを「好いている」と自慢げに思うことや、冬の町をゆく人が不意に箒となった街路樹に目を向け、さぞかし「寒い」のだろうと気を揉むことがあると思う。だが、果たして本当にこれらの生き物たちは「美味しい」「痛い」「好き」「寒い」などと感じ、考えることがあるだろうか。実際これらの疑問と真摯に向き合うことは生物学的にも、哲学的にも非常に難しい。

  このような話をすると、そもそもそのような疑問に意味はあるのかと考える読者もいるかもしれない。これには様々な側面からの答えが存在すると思われるが、例えば生き物の思考について考えることは、大袈裟に言えば「生き物とは何か」を考えることにつながるのではないだろうか。最近になって、その工学的な技術の発展により生き物のように動くロボットが作られ始めている。また情報技術の発展により、私たちよりもずっと正確に未来を予測するシステムも形成されつつある。このような現在の最先端技術を集大成すればもしかしたら多くの人が納得する生き物を作れるかもしれないと考える人もいるだろう。しかし、きっとその未来はまだ遠い。それは私たちが「生き物が何を考えているか」についてその多くを知らないからだ。私は生き物を生き物らしく振る舞わせているのはその精神的なシステムではないかと考えている。生き物がどんな「世界」を見ているのか、そして生き物たちはそこからどのようなことを考えているのか、さらにはそれらがどのような精神的なシステムによって動いているのかについて私たちはもっと知らなければならない。そして、それらが理解された時に初めて私たちは生物とは何かを理解できるのではないだろうか。ずいぶんと主観的な意見だが、きっとこの問いにはそうした重要な概念も少しながらも含まれていることと思う。

  また先にも触れた通り、この問いは困難でありがながら非常に多くの人に共有され、多くの人が興味を持っている。私としてはこの問いを深めていくことで多くの人が生命とは何なのか、またその多様さについて再び深く考える良い機会となればと思う。

  さて、まずはこの問いについて古来より考察を行ってきた様々な動物学者、心理学者、哲学者の意見を覗いてみよう。先人たちの深い考察の共通事項や対立事項を比較することにより、この問いについての基盤的な考え方について知っていただければ幸いに思う。

            先人たちの考察

  生物は何を考えているのかという問いはこれまで非常に多くの人の関心を惹いて来た。その中には哲学者であるデカルトも含まれる。彼は非常に簡略化して言えば『人は「言語の使用」と「理性の存在」という面で動物とは異なり、それらを持ち合わせない動物は機械に等しい』という概念を構築し、それを動物機械論と呼んだ*2。彼の主張は徹底しており、動物に対し思考の存在を全く認めていない。そのロジックについてはここで触れるにはあまりに複雑であるため省略するが、そもそも動物に全く思考というものを想定しないという考え方があるということを知ってほしい。

  この考え方に近いのが、心理学者スキナーの考えである。彼は徹底的な行動主義者*3であり、生き物に対し主体性を一切認めなかった。生き物の行動は全てオペラント条件付け4という学習の一種によって説明されると考え、ある行動の結果は過去に行われた行動結果の良し悪しに依存するという強化理論を提唱した。私は彼の理論を持って全ての生物の行動を説明するのは単純化が過ぎるのではないかと思うが、実際彼の研究は、生物の行動の一部をオペラント条件付けを用いることによって、意志の存在を介在せずに説明することに繋がった。

  一方で人間の作り出した実験環境下の行動のみでなく、自然環境下に近い状況での行動を研究した人たちもいる。これらの研究者は動物行動学者と呼ばれ、それぞれの動物の自発的行動や種特異的な行動に着目した。この分野の研究者たちにとって動物は単なる学習を行う機械ではなく、常に主体性を持った存在であった。殊に刷り込みを発見しノーベル賞を受賞したコンラート・K・ローレンツの動物に対する熱意は目を見張るものがある。彼は飼育している動物たちをオリに入れずに常に自由な状態にして観察を行った。彼の著作『ソロモンの指環』*5には以下のような表現が残されている。

 

「もちろん、居間にとりつけた檻の中で動物を飼っておくことはできる。けれども、知能の発達した高等動物の生活を正しく知ろうと思ったら、檻や籠ではだめである。彼らを自由にふるまわせておくことが、なんとしても必要だ。檻の中のサルや大型インコたちがどれほどしょんぼりしていて、心理的にもそこなわれていることか。そしてまったく自由な世界では、そのおなじ動物がまるで信じられぬほど活発でたのしそうで、興味深い生きものになるのである。」(ソロモンの指環*5 p 14〜15)

 

  彼の過剰ともいえる動物への感情移入は時に科学的ではないと非難を受けることもある。だが実際彼の動物に関する重要な発見は、まさに動物に対する深い愛情から見出されており、生き物の思考を踏まえた上で初めて見つかることであろう。確かに科学において生き物の主体性を仮定することは時に混乱を生むことかもしれないが、適切な注意を払った上であれば、生き物に対するそのような姿勢もあっても良いのではないかと個人的には思う。

  最後にもう一人、生物学者であり、哲学者でもあったヤーコプ・フォン・ユクスキュルという人物にも触れておきたい。彼は動物の見ている世界がどのようなものなのかについて哲学的に考察を行い、科学的な実験によって追求した人物である。彼の生きていた1800年代後半から1900年代前半の多くの生理学者、動物学者が生き物の中に存在する主観的な世界を否定する中、彼の打ち出した環世界(umwelt)という概念は一部の人にとって魅力的に見えたかもしれない。事実彼の考えは上記のローレンツやその他の様々な哲学者に影響を与えたと言われている。この文章でも環世界は一つのキーワードとなっている。そのため次章ではその環世界とはどのような概念なのか詳しく見ていこう。 

            環世界

  環世界は簡単にいえば生き物が外界を認識し、そして自己の中で再構築される世界を指す言葉である。これは私が生物について考える時、最重要視している概念であり、生物は何を考えているのかについて考察する時にも非常に重要であると考える。まずはこの概念がどういったものなのか、より深く実感してもらうために彼氏の著書『生物から見た世界』*6にも紹介されているマダニの例を取り出して考えよう。

  マダニは私たちのよく知る小さな虫(正確には虫ではないのだけど)であり、他の動物の血液から養分を得て生きている。実は彼らは目を持たない。代わりに体表に光を感知する感覚器を持つ。自然界ではその光感覚を頼りに灌木の枝によじ登り、動物の皮膚が発する酪酸の匂いをじっと待つ。嗅覚がその匂いをとらえると、それをシグナルとして途端に落下する。運よく暖かいものの上に落下したことがわかったら、毛のないところまで体性感覚を頼りに移動し、血を吸う。このような生活環を持つマダニにとって「世界」は、基本的に光感覚・温度感覚・体性感覚・嗅覚(酪酸)のみからなっていると言えよう。逆に言えば、森に吹くそよ風も、小鳥のさえずりも、新緑の若草色も、その環境のほとんどがマダニの「世界」には存在しない。マダニは自身が知覚できるこれらの情報を外界から感覚器を通じて取得し、それらを使って自身の中に主体的な「世界」を構築している。これがすなわち、マダニにとっての環世界だ。それがどのような「世界」なのか想像に難いが私たちの見ている「世界」とは根底から異なっているということは納得いただけると思う。

  もう一つ研究の進んだ面白い例を紹介しよう。ミツバチの環世界についてである。これはノーベル賞を受賞したカール・フォン・フリッシュ氏によって丹念に調べられたものだ。彼は主にミツバチの色感覚、化学感覚、餌のありかを仲間のミツバチに対して示すミツバチのダンスについての研究*7を行った。今回はその中でミツバチの色感覚について簡単に触れよう。

  先程のマダニの例のように生き物たちにおいて色を認識している生き物は多くはない。それは光の強度を認識できれば、彼らの生存において十分だからである。一方でミツバチの場合は異なる。草地に生える色とりどりの花を見分け、蜜を採取する必要があるからだ。そもそもミツバチのような送粉者が色を識別できないのであれば、植物の花があんなに色とりどりに、また多彩な模様を進化させる理由がなくなってしまう。そう感じたフリッシュ氏は丹念な実験(本当は彼のよく工夫された、また地道な実験系が面白いのだが今回は省略する)からミツバチには次の図のような色感覚が備わっていることを発見した。この図はミツバチとヒトの知覚できる可視光領域を示したものである。

 

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図2:ミツバチとヒト受容可能な可視光の領域*8

 

  すなわちミツバチは人間にとっての赤色盲であり、それとは反対に人間がみることのできない紫外線領域の光を見ることができるのである。だからどうしたのだと思われる読者もいるかもしれないが、これは示唆に飛んでおり非常に面白い。例えば人間にとってはみなただの黄色に見える次の花を、紫外線を可視化できるフィルターを通じて見てみるとそれぞれ次のような特徴的な模様が浮かび上がる。

 

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図3:ミツバチの見ている世界*9

 

  花の中心が別の色になっているのは、その領域が紫外線を反射しているということを示している。このような中心部が別の色を呈しているような模様は蜜標といわれる。実際このような模様があることによってミツバチたちはどこに蜜があるのかを判断し、そちらの方向に口吻を伸ばすということが知られている。

  この事実を知った時、私は感動を隠せなかった。私たちの見ている「世界」とミツバチの見ている「世界」はこんなにも違うのかと。私たちにとっては見分けがつかないような花でもミツバチが見れば異なる模様が浮かび上がる。また逆に私たちにとっては情熱を感じさせる赤色は、ミツバチにとっては色として感じ取られない。東京大学でオプシンの研究を行っている河村正二先生が、ナショナルジオグラフィックのインタビュー記事*10で次のようなことをおっしゃっていた。

 

「色は光線にくっついている」わけではなく、「物質にくっついている」わけでもない。むしろ、光の波長を識別する能力に応じて、「脳が色を塗っている」

 

  これはまさにそういうことだと思う。このように私たちの周りに存在する「世界」は、まさに私たちによって主観的に構築されているものであり、絶対的なものではない。そう実感したとても面白い例であった。客観的な環境も結局は私たちの環世界を通じてしか認識され得ないのである。

  これらの例によって、「生き物たちは複雑で客観的な環境から感覚器を通じて彼らの必要な情報を得、それを元に主観的な環世界を構築して生きている」ということが少しお分かり頂けたと思う。それではこの環世界は具体的にどのようにして構築されているのだろうか。もちろん生物種によって異なるため一辺倒な答えは存在しないが、次章では心理学によって得られた知見をもとに、ヒトの環世界とはどのようなものなのか具体的に考えてみよう。

            心理学と環世界

  心理学は、心の一般的な特性について、生物学の手段や統計学の手段を用いて、科学的に解明しようとする学問である。環世界はおそらく精神的プロセスによって構築される訳であるから、今回は心理学の研究分野の中から用語を借りて、ヒトの環世界について少し詳しく考察してみたい。今回私が注目したのは感覚・知覚・認知、感情、記憶の3つの精神的な過程である。説明の都合上これ以降はこれらを心的プロセスと呼ぶことにしよう。まずは(少し退屈するかもしれないが)それぞれの用語について簡単に定義を確認しておく。

  感覚・知覚・認知は一つの流れを持った概念である。心理学*11ではこれらを次のように定義している。

 

「感覚は外界の情報を感覚器で感受する過程やその結果、知覚はこの情報をまとめたり、欠けたものを補って意識する過程やその結果、認知は注意 (attention)や記憶(memory)、感情 (emotion) の影響を受けて情報を意味づけ理解する過程やその結果である。」    (『Next教科書シリーズ 心理学[第3版]』p54)

 

  具体的に言えば、私たちがダルメシアン犬を見たときに、視細胞が犬から反射された光を受容する過程や結果が感覚であり、それらの情報を統合して何がしかの白と黒のブチ模様がそこに存在すると認識する過程や結果が知覚であり、最終的にそれがダルメシアン犬であると判断する過程や結果が認知であるということになる。

  次に感情は定義が難しいが、先ほどと同じ心理学の教科書*11には「経験の主観的な感じ取り方を表す総称的用語」(p106)と記されていた。実際はより詳しく細分化されているが、今回の議論とは深くかかわらないため割愛させていただく。

  最後は記憶である。「記憶とは自己の経験が保存され、その経験が後になって意識や行為のなかに想起・再現される現象」*12である。記憶は学習が行われるための必要条件になっているなど心理的な機能として重要な立ち位置を占めている。

  早速これらの心的プロセスを用いてヒトの環世界について考察してみようと言いたいところではあるが、ここで一つ留意しておくべき事柄がある。それは、これらの心的プロセスは一体何なのかと言うことだ。私はデカルト心身二元論のようにこれらの心的プロセスが身体と独立して存在し、ヒトの意思決定を行っているとは考えていない。これらは全てシステムである。ちょうどあなたのスマートフォンに様々なアプリケーションがインストールされているように、私たちの体には少なくとも上に挙げたような心的プロセスが備わっていると考えられる。私たちの行動や生理的な状態の変化を調節する他のシステムと同様に、これらの心的プロセスもシステムの一つである。その複雑さと研究の難しさから、生物的な仕組みについては未だ詳細は明らかになっていないが、今後これらの具体的な仕組みが明らかになっていくとより深い議論ができることだろう。

  さて、いよいよこれらの心的プロセスをもとにヒトの環世界について詳しく考察してみよう。まず私たちの見ているこの環世界は感覚と知覚によってその外型が構築されている。街を散歩すると街路樹や車や他の人が見えるのは言うまでもなく視覚によるものであり、またそれらのバラバラな信号を一つのまとまりとして見られるのは知覚の働きである。そして少なくともヒトの場合、次の過程ではそれらの信号に意味付け、すなわち物体の認知が行われる。この認知の過程には先に挙げた定義の通り、他の心的プロセスが関与してくる。例えば、緑の円形の部分と茶色の棒状の部分からなるものを木であると認知する過程には少なくとも記憶による学習が深く関わってくる。雑草が好きでたくさんの図鑑を眺めてきた私と、植物にあまり興味のない人とでは同じ植物が知覚されたとしてもその認知的な意味付けは異なるだろう。また、感情による影響も関わってくる。悲しいことがあった時に見上げる星空と楽しい時に見上げる星空では同じ光景でもまた異なる認知的な意味付けがなされるだろう。このように少なくともヒトの場合には、認知という過程の裏に他の心的プロセスとの複合的な情報処理の過程が起こっていると言える。

  重要なのはこの認知という過程によって、環世界の中に「もの」が生まれるということだ。私たちは環世界の中で多くの意味付けされた「もの」に囲まれて生きている。例えば、これは消しゴムで、これは携帯電話で、あそこにあるのはフライパンで、、、といった具合にたくさんの「もの」は認知的な働きによって環世界の中で意味を持った単位になる。この環世界における「もの」それ自体、またそれを生み出す認知という過程は果たしてヒトの思考にどのような影響を与えているだろう。

  一つは認知により、物事を予測できるようになる。例えば、私たちは水というものを認知することによってその流れる方向をおおよそ予測することができる。また綺麗な夕焼けを認知することによって明日の天気を予想することができる。「心の仕事は未来を築くことである」とフランスの詩人ポール・ヴァレリーは言ったが、未来のことを予感し、期待を生成するというプロセスには認知が大変重要になってくるだろう。

  別の見方をすれば、認知は道具の使用を可能にする。事実私たちはたくさんの道具を使うことによって、体力や思考を節約している。例えばボタンを押せば開く自動ドアは、ボタンとその機能が認知されることによって、無理やり開こうとする体力やどうやって外に出ようかと思考することを節約できる。

  このようにヒトの環世界は感覚・知覚によって構築され、他の心的プロセスと複合した認知によってその情報に意味付けが行われている。そしてその認知によって未来の予測や道具の使用など様々なことが可能になっている。

  私の興味としてはこれらのどこまでが他の生き物と共有されていて、どこからが人間に特有の心的プロセスなのかというものだ。このような未来を予測したり、エネルギーを節約したりする役割を果たす認知能力は、きっとその生き物の生存確率を大きく上昇させるであろう。その程度は違うにせよ、その能力自体はヒトだけでなく他の生き物で獲得されていてもおかしくはないと思う。このような私と同じ信念のもと、動物の認知について探究する研究分野が実は存在する。それが認知進化学と呼ばれる分野である。この分野の研究者たちの功績により動物の心的プロセスについて、いくつか示唆に富んだ証拠も上がってきているので、これを次章で少し紹介しよう。

            生き物の認知

  今回は、『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』(Frans de Waal著)*13という本に紹介されていた例を2つ紹介する。一つ目は、ハチの個体識別について、二つ目はハタとウツボの協力行動についてである。ただし、これから生き物たちの環世界に踏み入れる読者に一つ忠告すべきことがある。それは分からないからと言って動物の心理について過大な解釈をしないということだ。これは比較心理学者であるロイド・モーガンの次のような言及に基づく。

 

ある行動が、心理的尺度の低い位置にある精神的能力の行使の結果と解釈しうるなら、いかなる場合にも、それより高度な精神的能力の行使の結果と解釈してはならない。

(『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』*13 p60)

 

  これはモーガン公準としてこの分野の研究者たちに強く意識されているものとなる。私たちは動物の知的な行動に対して、いとも簡単にその心理を想像し、物語を作ることができるが、ロジックを重視する科学の世界においてそれはあまり意味をなさない。心的プロセスに対し実質的な証拠を示すことができない現状では、堅実な証拠を積み重ねていくことにこそ意味があると私は考える。

  これを踏まえ、まずMichael J. SheehanとElizabeth A. Tibbetts によって行われたアシナガバチの顔認識を検証した研究*14を見ていこう。この実験に用いられたハチは、アメリカ中西部に生息するアシナガバチである。このハチは一つの巣内に何匹かの女王蜂がおり、それらの社会的な順位によって産卵にかけることのできる労力が変わってくる。この特徴からこの種のアシナガバチが個体を認識する必要があり、顔認識能を進化させるドライビングフォースがかかっていることが考えられる。

  

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(左図は論文*14を元に作成、右図は*15より引用)

図4:ハチを用いた実験に使われたチャンバーの概略図とアシナガバチの顔のイメージ

 

  実験は図のようなT字型のチャンバーを用いて行われた。チャンバーの床には電流が流れており、T字の交わっている部分の壁には二つの画像が示されていた。また、T字路の腕は区切られて小部屋になっており、そのうちある画像と対応する部屋にのみに電流の安全地帯が用意されていた。使用された画像は右図のようなハチの顔の画像の他に、イモムシや幾何学模様、加工済みのハチの顔の画像が用いられた。このような状態でランダムに写真と安全領域の位置を変えながら、繰り返しアシナガバチを放ち、どれくらいの割合で電気刺激を避ける安全地帯のある部屋に入ることができるかという計測を行った。結果はハチたちの学習速度はその他の画像と比べハチの顔の画像で最も高いこと、またその正答率は普通のハチの顔の場合7割ほどとなり、他の画像と比較して有位に高いというものであった。

  この結果から言えることはなんだろう。このハチは各個体の顔を「認知」していると言えるであろうか。私の意見としては(それを認知と呼ぶかどうかは別として)このハチにはその顔の特徴の何かを他と区別して認識し、そのパターンを記憶しておくシステムは存在している可能性があるということだ。これはハチの環世界においてハチの顔(を特徴付ける何かのパターン)は他の写真とは異なる意味付けされた「もの」として存在しているということになる。本研究の結果を信じるのであれば、ハチは多くの研究者が考えているよりもずっと豊かな「世界」を生きていると言えるだろう。

  ただやはり注意すべきは、これは機能主義的な観点からの物言いであって、そのシステムは生物間で共通しているとは限らないという点である。むしろハチの神経構造はヒトと比較してずっと単純であることを鑑みると、ヒトとハチのメカニズムが相同であるかどうかは疑問が残る。

  もう一つの例は、スイスの動物行動学者であるレドゥアン・ブシャリーという人物によって行われたサンゴ礁の魚たちの協力行動についての論文*16引用する。この論文では紅海のハタ類とウツボなどの魚(また、タコとサンゴマス)の協力行動についての観察結果が述べられている。ハタ類は紅海のサンゴ礁において頂点に立つ捕食者である。しかし、サンゴ礁は小魚にとって隠れ家も多く、狩りをしている際にサンゴ礁の隙間に小魚が逃げてしまうことも多い。そこで彼らは近くにいるウツボなどの魚に対しヘッドスタンディングと言われる首振り行動を行い、狩りへの協力を促す。すると、ウツボは自身の隠れ家から抜け出し、先ほど魚を逃したサンゴ礁へと向かうというものだ。(ウツボにとっては逆にサンゴ礁の隙間にいる魚の方が捕まえやすい)実際に論文にはヘッドスタンディング行動の記録と、それに協力した(ように見える)魚の行動などが記載されていた。

 

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(ネット記事*17より引用)(ぜひこの動画 *17も見てみてほしい)

図5:ハタとウツボの写真

 

簡潔にまとめるとこの論文では次のようなことが明らかになった。

 

(1)ハタ類とウツボは、偶然遭遇の帰無仮説で予測されたよりも多くの時間を共にしているということ、

(2)ハタ類が積極的にシグナルを発して共同狩猟を誘発しウツボを勧誘すること、

(3)満腹のハタ類はシグナルを発しないこと、

(4)両方のパートナー種が共同での狩猟の成功率を高めたこと

(論文*16より翻訳を行い引用)

 

  この研究について、ドゥ・ヴァール氏が注目している認知機能はこの二匹の魚がこれから何をするつもりでそれがどんな利益をもたらすのか理解しているように見える構図である。もちろんこれは状況証拠でしかないため推測の域を出ないが、もしかしたら魚も状況を認知し、限定的に「未来の推測」ができるのかもしれない。(もしそうだとすれば、なんと感動的な実験であろうか)

  さてここまで生き物の認知に関する研究を紹介してきた。このような生き物たちの知的な振る舞いは時に私たちに生き物たちの持つ心的プロセスの存在を感じさせてくれる。実際今回紹介したように生き物たちが単なる機械ではなく、主体的に意思決定を行って生きていることを示唆する証拠は他にもたくさん存在する。知れば知るほど生き物たちの賢さや巧みな生き様に驚かされるばかりだ。するとこうした仕組みは、一体どうやって生じたのだろうという疑問が生じてくる。次章ではこれについて簡単に触れよう。

      心は誰が作ったか

  生物に備わった心的プロセスは、如何にして生まれたのであろうか。神様が作ったといえば話は早いかもしれないが、それではその神様とは一体なんだろうか。それはまさに進化である。地球上に存在する全ての生物は例外なく進化によって生まれ、育まれてきた。心的プロセスも生物に備わるシステムであるのだから、例外ではない。心的プロセスは、他の生理的なシステムと同様に生き物と共に少しずつ進化してきたものだ。だから生き物の持つ心的プロセスは生き物によって様々な段階が存在する漸進的なものだし、その種が生きてきた環境によっても非常に多様なものとなる。

  このような主張は宗教的に一部の人に不安と反感をもたらすことになるかもしれない。古くから世界各地に残る人間優位の考え方に疑問を投げかける行為だからだ。一部の人はどうしても私たち人間がこの地球上で最も“優れた”生き物であり、他の“下等な”生き物とは異なる存在であると信じたいらしい。そう思いこむことはそれで結構なことだが、事実は違う。全ての生き物は連続した進化の産物であり、私たち人間も何一つ変わらずその系統樹の上にいる。そう考えれば、やはり心的なプロセスも人間だけで獲得されたものとは考えにくい。

  さらに言えば進化はその性質上、必要以上のものはもたらさない。例えば、認知進化学の章で紹介したアシナガバチの研究には続きがある。近縁種で別種のアシナガバチではあまり顔認識の学習効果が認められなかったという内容だ。これは顔学習のないアシナガバチの生活環では、顔学習があるアシナガバチの生活環とは異なり、一つの巣内に何匹も女王蜂が存在するという状況が起こらないため、社会的なカーストを作る必要がなく、結果的にハチが顔を認識する必要性がなかったためである。そうすると、顔学習のないハチは顔学習のある近縁のハチよりも劣っていると思うかもしれないが、それは私たちが勝手に貼ったレッテルにすぎない。そのハチはそのハチで自身の生活環に十分うまく適した心的プロセスを持っているではないか。そこに優劣という概念は全く存在しない。

  もちろんこの多様な生き物の世界の中でヒトに固有に獲得された心的プロセスもあるだろう。その機能を以て他の生き物よりもヒトが優れた生き物であるということはできるかもしれないが、私はその行為に特に意味を感じない。それであればどうして、犬に、ペンギンに、ハチに、イチョウに、固有の素晴らしい心的プロセスが備わっていないと言えようか。また、どうして他の生き物がこれからヒト固有の心的プロセスを獲得しないと言えようか、どうしてヒトがこれからその心的プロセスを失うように進化しないと言えようか。私たち生き物は多様であり、また変化していく。そこから私たち固有のものを探すだけでなく、他の生き物の多様さやシステムの巧みさに目を向けることができるならば、私たちだけが“優れて”いなくとも生きているというそれ自体の感動を持って生きていくことができるのではないだろうか。

      生き物は何を考えているのか

  さて、これまで生き物は何を考えているのかという問いについて、先人たちの考え、ユクスキュルの環世界、心理学、認知進化学、そして進化と様々な方面から考察してきた。ここでもう一度この問いを振り返ろう。結局「生き物はどんなことを考えて生きている」のだろうか。

  そもそも先人たちの考察でも紹介したように、生き物が何かを考えているということ自体あり得ないと考える人がいる。そうすると他の生き物というのは皆、環境からの刺激に対して条件分岐を行い、それに応じて動くだけの機械だということになる。だけれどもきっとその考えは間違っている。

  自然は非常に複雑であり、その環境の全ての情報を受容して生きていくことは不可能である。そのため、生き物たちは彼らの持つ様々な感覚器から情報を絞って受容する。しかし、そのままでは情報は散漫としており、それらに対して条件分岐を行うには少なくともそれらの情報を集約し、整理する必要がある。大袈裟かもしれないが、それこそが生き物が自らの「世界」を構築しているということではないだろうか。そうして作られた「世界」を生き物たちは見て、感じて、時には未来を予測して、それに対応する行動をとるということをしている。それが「生き物が生きている」ということだ。だから何も考えていない生き物は存在しないし、もし環世界を持たない生き物がいるとするならば逆にそれは生き物でないと考えて良い。ヒトもハチも魚も鳥も細胞もみな生きているからには彼らの中には、必ず彼らの「世界」が存在している。

  それでは私たちはその生き物の「世界」に入り込み、何を考えているかについて考えることはできるだろうか。それはやはり現段階でははっきりとしたことは言えないだろう。まだまだ、動物の認知に対する記述的研究も、そのシステムに対する解剖学的研究も、その情報制御の仕組みも生き物たちの環世界や心的プロセスを知るにはあまりに何もわかっていない。そもそもトマス・ネーゲルの出した哲学論文「コウモリであるとはどのようなことか」*18で言われている通り、私たちには理解し得ないことなのかもしれない。ただ、だからと言って私はこの問いについて考えることをやめるつもりは毛頭ない。この難解な問いが少しずつ紐解かれていくことで、私たちは生命の神秘に対するより深い感動を抱くに違いない。

  結局今のところ、生き物が何を考えているかは本質的には分からない。分からないのだけど、その生き物の生活や行動をじっと見てその生き物の環世界を想像することできっと、何を考えているのか私たちなりに解釈することができるのだと私は思う。

      謝辞

  本稿は以下の文献に示した、様々な本を通じて書かれたものだ。私がこのような本を読むきっかけとなったのは、東京工業大学 生命理工学院 立花 和則 准教授の勧めがあったからである。また、心理学的な考察に関しては同大学 リベラルアーツ研究教育院 環境・社会理工学院 社会・人間科学系 永岑 光恵 准教授の講義を受けてきたが故の物である。永岑先生には、本稿に直接のコメントもいただいた。以上の両方にはこの教養卒論への寄与が大きいと私なりに判断し、ここに感謝申し上げたい。

  さらに本稿は、授業内はもちろん、授業外の部分でも様々な友人から大変重要なアドバイスをいただいた。彼らのアドバイスはどれも大変的確で本稿を書く上で大変参考になった。具体的な名前は伏せるが、彼らにも大変感謝している。

  最後に本稿を書く上で直接引用には出てきていないが、大きく参考にさせていただいた文献がある。日髙敏隆先生の「世界を、こんなふうに見てごらん(集英社文庫 2013/1/18)」という本だ。本書は生物たちの見ている世界に関して、平易な言葉でありながら、筆者が大変本質的と感じる内容が多数記載されている。もし本稿を面白いと感じてくれた方々がいれば、この本も必ず面白いと感じてくれるはずである。よってここに日髙敏隆先生への敬意も込めて本書を紹介しておく。

  以上様々な人の協力により、私なりに本稿を書き上げることができた。間接的・直接的に関わってくれた方々には再度大変なる感謝を申し上げ、本稿を終わりとしたい。

 

            参考・用語解説

*1:写真は

  『オオスカシバ|蛾なのにハチに間違われがちな理由とは?』

     亀田 恭平@ネイチャーエンジニア 

    https://www.nature-engineer.com/entry/2019/10/19/090000 より引用

   (2021/1/14 参照)

*2:デカルトの動物機械論については、次のサイトを参照した。

『動物は言葉をもたない ──デカルト「動物=機械論」概説──』久保田 静香

http://www.waseda.jp/bun-france/pdfs/vol24/%8Bv%95%DB%93c025-042.pdf

*3:行動主義者とは心理学のアプローチの1つで、内的・心的状態に依拠せずとも科学的に行動を研究できるという主張する人たちである(以下の Wikipedia 2021/1/14 参照)。

  スキナーはその行動主義心理学において多くの功績を残している。

       https://ja.wikipedia.org/wiki/行動主義心理学

*4:「オペラント条件付け」についての簡単な説明を記述する。

  オペランと条件付けとは「報酬や嫌悪刺激(罰)に適応して、自発的にある行動を 行うように、学習することである。行動主義心理学の基本的な理論である。」(以下の Wikipedia 2021/01/21参照)

       具体的には、ブザーを鳴らした後に餌を与えると言う一連の行為を繰り返したマウスが、ブザーを鳴らしたときに自発的に近づいてくるようになるという現象に対する説明を与えることができる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/オペラント条件づけ

*5:『ソロモンの指環』コンラート・ローレンツ 日髙敏隆訳 2013年 集英社文庫 

*6:『生物から見た世界』 ユクスキュル クリサート著 日高利隆・羽田節子訳 2005年 岩波文庫

*7:『ミツバチの不思議[第2版]』Karl Von Frisch著 伊藤 智夫訳 1986年 法政大学出版より参照

*8:写真は

  『「黒い服を狙う」は間違い⁈ ハチの視力と色覚』

  ハチ退治サル太郎のサイト 

    https://sarutaro.net/colum/colum_09.html より引用(2021/1/14 参照)

*9:写真は

    『花き研究所』 農研機構 http://www.naro.affrc.go.jp/archive/flower/kiso/color_mechanism/contents/pattern.html より引用(2021/1/14 参照)

*10:第2回 「色」は光にはなく、脳の中にある 文/川端裕人

  https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/16/012700001/012800002/ に記載

*11:Next教科書シリーズ 心理学[第3版]和田万紀 編 参照

*12:『記憶とその障害』 藤井俊勝https://www.jstage.jst.go.jp/article/hbfr/30/1/30_1_19/_pdf より引用

*13:『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』

フランス・ドュ・ヴァール 松沢哲郎監訳 柴田裕之訳 2017年 紀伊国屋書店

*14:『Specialized Face Learning Is Associated with Individual Recognition in Paper Wasps』

  1. J. Sheehan, E. Tibbetts Published 2011 Biology, Medicine Science

*15:写真は

   顔を見分けるハチ 三谷祐貴子

   https://www.natureasia.com/ja-jp/ndigest/v9/n2/顔を見分けるハチ/36634

   より引用(2021/1/14 参照)

*16:『Interspecific Communicative and Coordinated Hunting between Groupers and Giant Moray Eels in the Red Sea Interspecific Communicative and Coordinated Hunting between Groupers and Giant Moray Eels in the Red Sea』

Redouan Bshary,Andrea Hohner,Karim Ait-el-Djoudi,Hans Fricke Published: December 5, 2006

https://doi.org/10.1371/journal.pbio.0040431

*17:写真は 

  『MUTUALISM: TOP CARIBBEAN PREDATOR SPECIES HAVE LEARNED TO HUNT TOGETHER.』

   Mickey Charteris https://www.caribbeanreeflife.com/blog/category/team-hunting 

   より引用 (2021/1/14 参照)

*18:簡潔に何が書いてあるか知りたい人は以下のwikipediaを参照していただきたい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/コウモリであるとはどのようなことか